引き寄せの秘密セミナー

ゆるしとは?

許せない!!

ってことありますか?

突然ですが皆さんは許せない事があったり、許せない人っていますか?

まぁ、大体は出来事に「人間関係」が紐付いていると思うので

「許せない人」ってコトにしても良いかもしれません。

私にもどうしても許せない人がいます…

自分の中で相手を責め裁いても仕方がないし、

嫌なことをされたとしても、それはその人なりの「愛」なのだ…

とわかっていても

その時感じた自分の苦しい、悲しい感情や

理不尽な思いを手放すことができない事がある

生きているんだもの、

そういう思いをした経験を

誰しも1つや2つあるでしょう

心の奥底の地下牢にその人を押し込めていたとしても、珍しいことではないと思います

そして、この心の奥深い真っ暗な地下牢に思いを馳せる時、現在の自分自身もまた、地下牢に降り立っていること、これがまた不快だったりします

許すってどういう事?

そもそもこの「許す」とはどういう事なのか…

人は人を「許す」という事が可能なんでしょうか?

許すということの反対は責め裁いているということかな?と思うわけです。

そしてそもそも、この「裁く」という事…

これは私の考えですが、本質的には人は人を裁けないと思っています。

自分と自分以外の人が観てる世界も違えば

大切にしている価値感も違う

自分の世界観や価値観を他者にも大切にして欲しいならば

相手のそれも尊重する必要がある

自分の信念とは相容れない時もあるかもしれませんが…

ですから相手を裁かなくてもよくなった時

「許そう!」と思わなくても

自然とその嫌な思いにこだわらなくなるのかもしれません

…とここまで書いて

論語の「和して同ぜず」という

仲良くはするけれど、むやみに同調するのではなく、自分の信念は曲げない

そんな言葉が浮かびました

もしこの言葉が「裁き」と「許し」に相当する概念ならば、私はちょっと今まで浅い感覚で

捉えていたかもしれません

嫌な事をされたとしても

それは人としてどうなんだ?

と思える事をやっていても

「和をもてるか?」これは重い問いです

私はまだ、それを受けとめるほどの器にはなりきれてない感じがします

そして作家の五木寛之さんはこう言っています

『そもそも〈許す〉ことは本来、

人間の仕事ではないのではないでしょうか。

〈許す〉というのは、どこか傲慢な感じがします』

まだまだ裁いてるであろう私ですが

この感覚は、私の中にもあります

アドラー心理学では…

行動と人格を分けるという考え方をします

その人はマイナスな行動ばかりをしているわけではない

プラスな行動もしているけれど

「私が」マイナスに注目しているのだ

だからその人の「プラス」に「善」に注目していこう…という考え方です

非常にシンプル、そして建設的ですよね。

逆説的に言えば

そして、起こっている出来事を

「自分の心の投影」

簡単に言えば「鏡」だと考えると

相手を強く責め裁いている時

自分が自分を裁いている

…そう考える事ができます

つまり地下牢に実は

・ダメな私

・こうあらねばならない私

・辛すぎて直視できない自分

を閉じ込めているかもしれません

つまりどんな私でもいいんだ

素晴らしいんだ!丸ごとオッケーなんだ!

と心から思え、自分への許しが起きた時

自分の外の世界の、裁き裁かれが

なくなるのかもしれません

どちらでもいい

相手への裁き

それは相手がどんな行動をしたとしても

どんな選択をしたとしても

無関心ではなく、愛を持って

「どちらでもいい」と思えた時に

リリースされるものなのでしょう

自分への許しがおきたとき

相手への許しがおきる

「許す」とは

とっても自然発生的なものなのかもしれません

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